身体は、立体です。
けれど一枚の写真は、平面です。
後ろ姿だけでは、前後の崩れが見えない。
横顔だけでは、左右の崩れが見えない。
だから私たちは、二枚の窓を開けることにしました。
この一篇は、これまでの回と少し毛色が違います。前半は「なぜ二枚なのか」という、AGGTの測定の設計思想。後半は、その二枚をどう一つに束ねるか、という計算の話と、その計算を組むまでに正直について起きた、ひとつの出来事を記します。
AGGTは、はじめ、後ろ姿一枚から始まりました。背中側から撮った一枚の写真で、踵がどちらへ傾いているか。左右の踵の傾きの差から、重力軸からのずれを見ようとしてきました。
けれど、後ろ姿には、見えないものがあります。前後です。人を真後ろから撮ると、身体の奥行き――前に傾いているのか、後ろに反っているのか――は、平面に潰れて写りません。カメラは、自分に向かってくる方向の動きを、ほとんど捉えられないからです。後ろ姿が得意なのは左右、苦手なのは前後。これは、撮り方の良し悪しではなく、一枚の平面写真が原理的に抱える限界です。
姿勢を立体的に測る研究の世界では、この限界を、複数のカメラで身体を同時に囲む装置――三次元動作解析(3Dモーションキャプチャ)――で乗り越えてきました。何台ものカメラが別々の方向から同時に身体を捉え、平面の写真を何枚も重ねて、立体の真の角度を復元する。精密で、信頼できる方法です。ただし、専用の部屋と、高価な装置と、専門の技術者が要ります。
では、特別な装置を持たない臨床の現場では、立体は諦めるしかないのでしょうか。AGGTは、別の道を選びました。
後ろ姿が苦手なのは前後でした。ならば、前後がいちばんよく見える方向から、もう一枚撮ればいい。横からです。真横から撮れば、頭が前に出ているか、背が反っているか――後ろ姿では潰れていた前後の傾きが、こんどははっきり見えます。そのかわり、横顔では左右が潰れます。
後ろから、左右を測る。横から、前後を測る。二枚の平面写真は、それぞれ別の方向を得意とし、互いの苦手を補い合います。二枚を合わせれば、一台のありふれたカメラで、身体の立体に迫っていける。高価な装置で囲むのではなく、普通のカメラで、二つの窓を開ける。
これが、いまAGGTが「側面測定」を取り入れようとしている、本当の理由です。新しい機能を一つ足すという話ではありません。後ろ姿だけでは平面にとどまっていたAGGTを、二枚の窓で立体へ近づける――測定の土台そのものを、立体へと組み替える歩みです。
左右の崩れと前後の崩れを一つにまとめるとき、いちばん素朴なやり方は、直角三角形の斜辺を求めるように、二つを足し合わせることです。左右のずれと前後のずれを、二辺として、その対角線の長さを「全体のずれ」とする。
けれど、この素朴なやり方には、ひとつ隠れた前提があります。「左右の崩れと、前後の崩れは、別々の原因で、互いに無関係に起きている」という前提です。直角三角形の二辺が、互いに独立であるように。
ところが、身体はそうではありませんでした。足元の踵が傾くと、その影響は上へ上へと伝わっていきます。踵が内側へ倒れると、すねの骨がねじれ、太ももが連れてねじれ、骨盤が前へ傾き、腰の反りが増し、背中の丸みが変わり、体幹が前へ傾く。一つの足元の崩れが、左右の偏りと前後の傾きの、両方を同時に生むのです。これは「運動連鎖」と呼ばれ、複数の介入研究で繰り返し確かめられてきました。
つまり、左右の崩れと前後の崩れは、独立した二辺ではなく、共通の原因(足元)でいくらか連動している。連動しているものを「無関係」と決めつけて足し合わせると、共通の原因ぶんを二度数えてしまい、全体のずれが実際より大きく出ます。これを、私たちは「二重に数える」誤りと呼んでいます。
二重に数える誤りは、数学的に防ぐことができます。二つの量がどれだけ連動しているか――その連動の強さ(相関)を計算式に組み込めば、共通ぶんを差し引いて、正しい大きさを出せます。これは確立された統計の手法であり、新しい発明ではありません。難しいのは式ではなく、式に入れる「連動の強さ」を、どれだけ正確に知っているか、です。
ここで、先人たちの文献に学びました。踵の傾きと、上半身の傾きが、自然に立ったとき、人によってどれだけ一緒に動くか。独立した立場のAI(Manus)が、関連する研究を集めて整理してくれました。
そして、文献は連動を弱める方向の証拠も示していました。足元の崩れが上へ伝わる途中で、骨盤がいわば緩衝材のように働き、崩れの一部を吸収してしまう。ある研究(Yi 2016)では、踵の崩れは骨盤までは届いても、体幹までは目立った変化を起こさなかったと報告されています。別の研究(Ghasemi 2016)でも、足元から遠い背中ほど、変化は小さくなっていきました。
だから私たちは、連動の強さを「ゼロ」とは置きませんでした。ゼロは「まったく無関係」を意味し、運動連鎖の知見にまっすぐ反するからです。かといって、文献の数値をそのまま正解として計算に焼きつけることも、しませんでした。あとの章で正直に記すとおり、文献が測ったものと、AGGTが測るものは、同じではないからです。
ここで、AGGTにとって都合の悪いことを、正直に書かなければなりません。書かなければ、第3章で「連動はある」とだけ言って、自分に都合のいい向きしか語らなかったことになるからです。
これまで、足元の崩れが上へ伝わる――踵から骨盤へ、骨盤から背中へ――という「上向きの矢印」を語ってきました。AGGTが踵を起点に全身を見るのは、この上向きの連鎖を信じているからです。けれど、矢印は、下にも向きます。
背中や腰のほうに先に問題があると、身体はそれを補おうとして、骨盤を後ろへ傾け、膝を曲げ、足首の角度を変える。その結果、いちばん下にある踵の傾きまでもが、変わってしまう。つまり「上の崩れが、下の踵に降りてくる」。これは「下向きの矢印」であり、脊椎の医学では確立した代償の機序として知られています。
これがAGGTにとって何を意味するか。踵の傾きと体幹の傾きが一緒に動いていても――連動が正であっても――その原因が、必ずしも踵にあるとは限らない、ということです。踵が原因で上が崩れた人もいれば、上の問題が原因で踵が傾いた人もいる。同じ「連動」に見えても、矢印の向きは、人によって違うかもしれない。
そして、これはAGGTの根っこに関わる留保です。もし、ある人の崩れが「上から降りてきた」ものだったなら、踵を正しても、上の崩れは正されないかもしれない。AGGTは「踵の偏位を正すことを主眼にした臨床観察」だと定めてきました。けれど、踵が原因ではない人にとって、踵を正すことがどれだけ届くのかは、まだ誰も確かめていません。私たちは、踵がすべての起点だと言い切るのではなく、「踵という窓から見はじめる。ただし、矢印が下を向いている人もいる」ことを、忘れずにいなければなりません。
ここは、この一篇でいちばん大事な、正直についての一節です。
文献の研究の多くは、複数のカメラで身体を囲む三次元装置で測っています。踵の傾きも、骨盤や背中の角度も、立体のなかで精密に。一方AGGTは、いままさに二枚の平面写真で立体へ迫ろうとしている途上です。さらに、AGGTが後ろ姿から測る踵の角度と、文献が立体で測る踵の角度は、向いている面も、測り方も違います。文献が背中の角度と呼ぶものと、AGGTが横顔のシルエットから測る体幹の傾きも、同じではありません。
つまり、文献の「連動の強さ」は、AGGTにとっては借りものの数字です。方向(足元が崩れる側に、上も崩れやすい)は信じてよい。けれど、その強さの数値そのものを「これがAGGTの答えだ」と言ってしまえば、それは、自分で測っていないものを測ったと偽ることになります。
そこで私たちは、計算式に「連動の強さ」を入れる場所を、最初から正しい形で用意したうえで、その値を固定して埋め込まず、正直に開けておくことにしました。初めは文献から見込まれる弱い連動を仮に置く。ただしそれが「借りものの暫定値であって、AGGTで確かめた値ではない」と、はっきり顔に書いておく。そして、AGGTの実データが貯まったら、その本物の数値で置き換えていく。
「借りものは使わないと言いながら、結局その数字を入れるのか」――そう聞こえたかもしれません。ここは、はっきり区別させてください。借りてはいけないのは、答えとしての数字です。「AGGTの連動の強さは、これだ」と確定値のように言い切ること。これはしません。一方、借りてよいのは、足場としての数字です。本物の値が測れるまでのあいだ、計算をひとまず動かすための、仮の置き石。それが仮の置き石だと顔に書いてあり、実データが来たら外して本物に取り替える前提であるかぎり、足場として借りることは、偽りではありません。ゼロという「最も実態から遠い決めつけ」で床に穴を空けておくより、「弱い連動が見込まれる」という確かな方向に沿った置き石を、仮だと明示して置くほうが、正直です。
これは、AGGTが踵の判定で続けてきた作法と、まったく同じです。仮の値は仮の値だと正直に明示し、実践の積み重ねで本物に変えていく。物理科学から導いた式は嘘をつかない。その式に入れる中身は、世界中の仲間の手で測られた事実が、満たしていく。
ここまで読んで、整った話だと感じられたかもしれません。けれど、この束ね方に辿り着くまでに、危うく科学に不誠実な近道を選びかけました。隠さずに記します。
この連動の扱いを最初に検討したとき、計算は、連動の強さを「ゼロ」として始められようとしていました。理屈はこうです――「実データがないのだから、何も推測を入れないゼロが、いちばん安全で誠実だ」。一見、正しく聞こえます。
けれど、これは誠実の取り違えでした。すぐ前の章で「足元が崩れれば、上も連れて崩れる」と運動連鎖を確立した事実として述べたばかりです。連動があると分かっていながら、連動ゼロと置く。ゼロは「無推測」ではありません。確立した知見に反する、いちばん実態から遠い決めつけです。それを「中立」と取り違えていた。同じ近道は、別の言い方でも現れました。「いまは素朴に足し合わせれば十分、連動の扱いは将来の課題」――技術的に防げないからではなく、いま手を動かさずに済ませたいだけの、先送りです。
この近道が立ち止まったのは、誰かが鋭かったからではありません。AGGTがもともと持っている、たった一つの問いに照らしただけです――「それは、自分が実際に確かめた事実か。それとも、楽だから選んだ決めつけか」。この問いに「ゼロ」をかけると、答えははっきりします。ゼロは確かめた事実ではない。むしろ、確かめなくても知っていたこと(連動は存在する)に、正面から反している。だから採れない。
この出来事に、手柄も落ち度の名指しもありません。記録する価値があるのは、人の名前ではなく、構造の方です。速く、もっともらしく答えを組み立てられるものほど、その力ゆえに、手間のかかる正直を飛ばしてしまう。「ゼロが安全」「いまは十分」という、整った言葉で。だからこそ、整って聞こえる結論ほど、あの一つの問い――確かめた事実か、楽な決めつけか――に、もう一度かけ直す必要がある。それを怠らない仕組みを持っていたから、AGGTはこの近道を採らずに済みました。
立ち止まったあとは、簡単でした。隠れていた予測を机の上に出し、計算式を最初から正しい形に組み直す。連動の強さは、ゼロでもなく、借りものの数字を答えとして固定するのでもなく、「弱い連動が見込まれる、ただしAGGT自身ではまだ測っていない」と顔に書いた、置き換え可能な暫定値として。第5章で約束したとおりの形に。
二枚の窓は、AGGTを平面から立体へ近づけます。けれど、窓を増やすほど、それらをどう束ねるかという新しい判断が増え、新しい落とし穴も増えます。今回の「連動を二重に数える」誤りは、その最初の一つでした。
最後に、正直に書き添えておきます。後方と側面の二枚で、本当に三次元装置と同じ立体が得られるとは、まだ言えません。複数のカメラで囲む装置は同じ一瞬を多方向から捉えますが、AGGTの二枚は、別々の瞬間に撮られます。その間に身体がわずかに動けば、二枚は厳密には同じ瞬間の身体ではありません。
しかも問題は、時間差だけではありません。人は「測られる」と意識した瞬間に、無意識に姿勢を直してしまう――背すじを伸ばしたり、構えたり。後ろからと横からを別々に撮るあいだに、立ち方そのものが変わってしまえば、二枚はもはや「同じ瞬間でない」どころか、「同じ立ち方ですらない」二つの姿勢を写していることになります。それを一つの立体として束ねるのは、少し無理を含みます。だから私たちは「立体に迫る」「立体へ近づく」とは言えても、「立体と同じ」とは、まだ言いません。ここも、これから確かめ、撮り方を工夫して減らしていく宿題です。
重力は、誰にとっても同じです。その重力に対して、身体がどう立っているか。一台のありふれたカメラと、二枚の窓と、一ミリも事実から離れないという覚悟があれば、特別な部屋がなくても、そこへ近づいていける。それを、これから皆さまと一緒に確かめていきたい――それが、この一篇でお伝えしたかったことの、すべてです。
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