二枚の窓を開けて、左右の崩れと、前後の傾きが見えた。
では、その二つの数を、どうやって一つにするのか。
ただ足せばよいと思った。けれど、足すと二度数えてしまうものがある。
土俵が違うのではないか、とも思った。けれど、事実をよく見たら、
その問いそのものが、ほどけていきました。
この一篇は、前の回「二枚の窓」の続きです。あちらでは「なぜ後ろ姿と横顔の二枚が要るのか」を書きました。今回は、その二枚から見えた二つの数を、どう一つの像に重ねるか、という話です。難しい計算が出てきますが、計算そのものを覚えていただく必要はありません。お伝えしたいのは、答えではなく、答えにたどり着くまでの道の引き方です。
後ろから撮った一枚で、身体が左右にどれだけ傾いているかが見えます。横から撮った一枚で、前後にどれだけ傾いているかが見えます。けれど人を見るとき、私たちが本当に知りたいのは「この人は、まっすぐ立てている軸から、ぜんたいとして、どれだけ離れているのか」という、一つの大きさです。
左右が六、前後が三。二つの数が別々にあるだけでは、ぜんたいの大きさは見えてきません。だから、二つを一つに束ねたい。これが、この一篇の出発点です。
いちばん素朴なやり方は、直角三角形を思い浮かべることです。左右のずれを横の辺、前後のずれを縦の辺として、その斜辺の長さを「ぜんたいのずれ」とする。中学校で習う三平方の定理です。これはこれで、間違いではありません。
けれど、ここに落とし穴があります。前の回「二枚の窓」で書いたとおり、足元が崩れると、その崩れは上へと伝わっていきます。踵が内側に倒れると、その一つの原因が、左右のずれも、前後のずれも、同時に生み出すことがある。つまり左右と前後は、まったく無関係な二つの数ではなく、同じ原因から生まれた、つながりのある二つなのです。
無関係な二つなら、ただ足せばよい。けれど、つながりのある二つをただ足すと、同じ一つの原因を、左右のぶんと前後のぶんで、二度数えてしまう。ずれを、実際より大きく見積もってしまうのです。
では、つながりを差し引いて、二度数えを避けるには、どうすればよいか。実は、この問いに答える道具は、ちょうど百年ほど前に、人間の身体を測る現場から生まれていました。
一九二〇年、インドのある学会で、一人の物理学者が、博物館長から相談を受けます。「この街に暮らす人々の身体計測のデータ――頭の長さ、鼻の幅、身長など――を使って、集団どうしの『隔たり』を測りたい。けれど、長さも単位もばらばらの数値を、どうやって一つの隔たりにすればいいのか」。
この相談に答える過程で、彼は一つの計算を編み出しました。それは、単位の異なる複数の数を、それぞれのばらつきの大きさで揃え、さらに数どうしのつながり(相関)を差し引いてから、一つの「隔たり」にまとめる方法でした。後にこの計算は、彼の名をとって呼ばれるようになります。
ここで大切なのは、この道具が生まれた理由です。それは、もともと「単位もスケールも異なる、人体の数値を一つにまとめる」ために作られた、ということ。長さ(センチ)と幅(ミリ)と角度を混ぜることは、この道具にとって例外ではなく、最初からの目的でした。「混ぜてよいか」という問いに対する答えは、「混ぜるために生まれた」のです。
道具は見つかりました。けれど、この道具に二つの数を入れようとしたとき、一つの引っかかりが生まれます。それは、AGGTを実際に使う臨床の現場から出てきた問いでした――「左右と前後では、数の出どころが違うのではないか」。
左右のずれは、後ろからの写真で、頭が実際にどれだけ横にずれているかを、そのまま測った数です。一方、前後のずれは、横からの写真で測った「傾きの角度」を、いったん「距離」に換算した数です。換算には 距離 = 身長 × tan(角度) という式を使います。
この換算に、隠れた仮定が紛れ込んでいます。身長を掛けて距離を出すということは、「身体は、足から頭まで一本の硬い棒である」と仮定していることになる。けれど実際の身体は、いくつもの関節が重なった、しなやかな多関節のつくりです。同じ傾きでも、腰で曲がるか背中で曲がるかによって、頭の前後位置は変わります。一本の棒という仮定は、現実とは少しずれている。
つまり、左右はありのままを測った数、前後は「一本の棒」という仮定を経た数。土俵が、揃っていないのではないか。この問いは、正しい問いでした。
ここで、近道の誘惑がありました。「土俵は完全には揃わないが、まあ、だいたい同じだろう」として、そのまま進む。あるいは「左右も一本の棒の仮定に揃えてしまえば、どちらも棒で揃う」とする。どちらも、もっともらしく聞こえます。
けれど、その前に、もう一段だけ事実を見つめてみます。問題は「左右が実測で、前後が仮定だから」ではありませんでした。よく見ると、横からの写真で測った「傾きの角度」そのものは、何の仮定も経ていない、ありのままの数です。骨盤を後ろに倒し、膝を曲げ、身体がさまざまに踏ん張った、その結果として現れた傾きを、そのまま写し取っている。仮定が入り込むのは、その角度を「距離」に換算する、たった一手だけだったのです。
仮定は、換算という一手に紛れていた。
ならば――換算しなければよい。
角度を距離に換算せず、角度のまま使う。そして、左右の数も前後の数も、それぞれのばらつきの大きさで揃えてから束ねる。そうすれば、左右は「ありのままの左右のずれ」、前後は「ありのままの前後の傾き」。どちらも仮定を経ていない、揃った土俵の数になります。一本の棒という仮定は、もう、どこにもいません。
土俵が違うという問題は、こうして消えました。何か新しい発見があったからではありません。事実を順に見ていったら、問題のほうが、ひとりでにほどけていった。誰かが賢かったからでも、誰かが間違っていたからでもない。わからないことを「だいたい同じだろう」で済ませず、もう一段だけ正直に見つめたら、論理が次の一手を示してくれた――ただ、それだけのことでした。
異なる性質の数を一つにまとめることは、AGGTが初めて思いついた変わった試みではありません。むしろ、身体の軸を扱う医学の現場では、ずっと前から行われてきた、確かな営みです。
背骨の専門医たちは、患者の矢状面(横から見た身体のバランス)を評価するとき、性質のまったく異なる数値を組み合わせて判断します。生まれつき決まっている骨盤の形を表す角度、身体がどれだけ踏ん張って補正しているかを表す角度、そして補正した結果として実際にどれだけ前後にずれているかを表す距離。形のちがう、由来のちがう数たちを、一つの評価にまとめる。これは、世界中の背骨の医療で標準的に行われていることです。
なかには、これらの異なる数を点数化して合算し、手術後の経過を高い精度で予測する仕組みもあります。異なる数を束ねるという営みは、絵空事ではなく、すでに人の身体を救う現場で働いている。AGGTは、孤独な発明をしているのではなく、この長い系譜の、ささやかな続きに立っているのです。
ここまで、束ねる道具を持ち上げてきました。けれど、持ち上げたままにはしません。この道具をめぐっては、専門家のあいだで、いまも続く論争があるからです。都合の悪い話だからと伏せるのは、AGGTの流儀に反します。両方の言い分を、正直に並べます。
話は、もう一人の人物に関わります。品質管理の世界に、大きな足跡を残した工学者がいました。彼は、この束ねる道具を、工場の製品が正常か異常かを見分ける仕組みへと応用し、独自の体系をつくりあげます。工学の現場では、その直感はしばしば見事に当たりました。
けれど、統計学の専門家たちは、その応用体系を厳しく批判しました。ある論文は、はっきりと「その使用には反対する」とまで書いています。批判の矛先は、彼が変数を選ぶやり方や、独自に持ち込んだ指標の扱いに向けられていました。工学的な直感は鋭いが、統計学としての筋の通し方が甘い――それが、批判のおおよその中身です。
ここで、大切な切り分けがあります。この論争で批判されたのは、その工学者がつくった応用の体系であって、土台にある束ねる道具そのもの(マハラノビス距離)の数学ではありません。批判した側の論文も、道具そのものは正しいと、はっきり認めています。つまり、道具は確かだが、ある特定の応用の仕方には異論がある、ということ。
では、AGGTはどちらに立っているのか。AGGTが使うのは、束ねる道具そのものです。批判された応用体系――変数を独自のやり方で選び、独自の指標を持ち込むあのやり方――は、使っていません。AGGTは二つの数(左右と前後)を固定して扱うだけで、変数を選ぶ手続きそのものがありません。だから、あの批判はAGGTには直接あたりません。
とはいえ、批判の中には、AGGTにも部分的にあたるものがあります。「何をもって正常とし、何をもって異常とするか、その線引きは恣意的ではないか」という問いです。これは、AGGTが「ばらつき」の基準値をどう定めるかという、第九章で触れる宿題に、そのままつながっています。あたる批判は、あたると書く。それも、両論併記の一部です。
束ね方は決まりました。けれど、束ねるときの「重さ」の話が、もう一つだけ残っています。それは「左右と前後を、はたして同じ重さで扱ってよいのか」という問いです。
背骨の医療では、前後のバランスを表す指標のほうが、患者さんが実際に感じている困りごと――痛みや、暮らしのしづらさ――との結びつきが強い、と報告されています。横から見た傾きのほうが、その人のつらさをよく映している、ということです。長く臨床に立つ施術者が、後ろ姿よりも横顔の傾きを気にかけてきた感覚と、文献の知見が、ここで静かに重なります。
もしそうなら、前後により大きな重みをつけて束ねる、という考え方もありえます。けれど、いまはまだ、そうしません。どれだけの重みが正しいのかを決めるには、AGGT自身のデータが要るからです。それが無いうちは、左右も前後も等しい重さで扱う――これが、いちばん控えめで、いちばん正直なやり方です。重みづけは、確かめてから。
ここまで、束ねる道具が確かであること、土俵の不揃いが消えたこと、先人たちの系譜の上に立っていること、その道具の応用には異論もあることを書いてきました。けれど、整った話で終わらせるわけにはいきません。この束ね方には、まだ確かめられていないことが、いくつも残っています。隠さずに記します。
一つ。「ばらつきの大きさ」の値が、まだ借りものです。左右の数も前後の角度も、それぞれのばらつきで割って揃えると書きました。けれど、その「ばらつき」がどれくらいなのか――AGGTで測った人々の本当の値を、私たちはまだ十分に持っていません。いまは文献から推し量った仮の値を置いています。この仮の値が本当の値からずれていれば、束ねた数の絶対的な大きさは、まだ信じきれません。人と人を比べたときの大小の順序は保たれますが、その数そのものの重みは、これからのデータ次第です。
二つ。つながりの強さ(相関 r)の値も、借りものです。前回までに、このつながりの強さを暫定値〇・三〇として置く、と決めました。これは現在の科学的知見から提示し得る最善の足場ですが、AGGTで実際に測った値ではありません。データが蓄積した段階で考察し、根拠をもって書き換え得るものとして扱います。専門家から異議が出れば、根拠とともに検討し、その経緯もまた正直に書き加えます。
三つ。左右と前後は、本当に「ばらばらの二方向」なのか。背骨の研究には、横から見た傾きが変わると、左右の傾きもつられて変わる――三次元で互いに結びついている、という報告があります。もしそうなら、左右と前後を別々の方向として束ねるという前提そのものが、厳密には成り立たないことになる。つながりの強さ r は、その結びつきを部分的には拾いますが、複雑な結びつきまでは拾えません。AGGTが見るのはごく小さな傾きの範囲なので、その範囲では結びつきは弱いだろう、と考えてはいます。けれど、本当に弱いのかどうかは、AGGT自身のデータで確かめていません。これは、これからの宿題です。
四つ。後ろからの写真と、横からの写真は、別の瞬間に撮られます。その二枚のあいだに、人は無意識にわずかに揺れています。この揺れが、二つの数に、それぞれ別々の小さな乱れを加える。この乱れがどれくらい束ねた数を狂わせるのかは、まだ誰も正確に測っていません。これも、前回「二枚の窓」から持ち越した宿題のままです。
これらを並べてみると、見えてくることがあります。束ねる道具は、百年の歴史を持つ確かなものです。けれど、その道具に入れる中身――ばらつき、つながりの強さ、結びつきの有無――は、まだ多くが借りものか、未確認のままです。道具が確かであることと、出てきた数が信じられることは、別のことです。この区別を曖昧にしないことが、いちばん大切だと考えています。
左右と前後を、一つに束ねたい。その願いから始めて、素朴に足すと二度数えること、それを防ぐ道具が百年前に生まれていたこと、土俵が違うという問いが事実を見たらほどけたこと、先人たちもずっと異なる数を束ねてきたこと、その道具の使い方には強い異論もあり、それを伏せずに開けたこと、そして道具は確かでも中身はまだ借りものであることを、順に見てきました。
この道のどこにも、英雄はいません。誰かが鋭く見抜いたのでも、誰かがしくじったのでもない。わからないことを「だいたい同じだろう」で済ませず、もう一段だけ事実を見つめる。そうすると、論理が次の一歩を示してくれる。わかったふりをして先を急がないかぎり、道は、ひとりでに決まっていきます。それが、私たちが束ねるときに採った、ただ一つのやり方でした。
確かめたことは、確かめたと書く。借りているものは、借りていると書く。まだわからないものは、わからないと書く。そうして残した宿題の一つひとつが、次に何を測ればよいのかを、静かに指し示しています。これを、これから皆さまと一緒に、一つずつ確かめていきたい――それが、この一篇でお伝えしたかったことの、すべてです。
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