ここまで、私たちは「これからこう測る」と語ってきました。
二枚の窓で立体に迫る。二つの数を一つに束ねる。
けれど、その設計で実際に人を測ると、何が起きるのか。
はじめて一人を、五枚ずつ測ってみました。
すると、後ろ姿は揺れ、横顔は揺れませんでした。
被験者は、AGGTを立ち上げた本人です。撮影は、その妻が行いました。特別な部屋も装置もない、ふつうの居室で、裸足で、何度か立ち直しながら撮った、ただの五枚ずつ。そこから見えてきたものを、飾らずに記します。数字はすべて、実際の画面に出たものです。
これまでの三篇――「へそ」「二枚の窓」「一つに束ねる」――を、いま振り返ると、どれも「設計の話」でした。AGGTがどんな場所に立っているか。なぜ後ろ姿と横顔の二枚が要るのか。二つの数をどんな道具で束ねるのか。理屈と、先人の文献と、計算式。それらを、一段ずつ組み上げてきました。
その三篇のどれもが、最後に同じことを正直に書いていました。「AGGT自身の土俵で測った実データは、まだ一つもない」と。束ねる道具は確かでも、入れる中身は借りもの。連動の強さも、ばらつきの大きさも、文献から借りた仮の置き石。本当の値は、AGGTで撮りためた実データだけが教えてくれる――そう書きながら、その実データを、まだ一つも持っていませんでした。
設計図は、引けた。
では、その設計で人を測ると、何が起きるのか。
この一篇は、その問いに、はじめて実物で答えます。立派な結論を出すためではありません。むしろ逆です。設計どおりに測ったら、思っていたより数字が揺れた。その揺れを、隠さずに見ていただく。それが、この記事のすべてです。
まず、後ろから五枚撮りました。同じ人が、同じ場所で、一枚撮るごとにいったん足を崩し、また立ち直して、撮り直す。五回ぶんの、後足部の傾きです。出てきた数字は、こうでした。
同じ人を、同じ場所で、続けて撮っただけです。それなのに、一枚ごとに一度から三度ぶん、数字が動く。これを見て、最初に思うのは「測り方が雑なのではないか」「機械の精度が低いのではないか」ということでしょう。私たちも、そう疑いました。だから、確かめました。
AGGTは、一枚の写真を測るとき、その一枚の中で何度も計算を繰り返し、検出の信頼度を自分で採点します。今回の五枚は、どれも最高ランクの信頼度で検出できていました。輪郭の見え方も、関節の位置の確からしさも、すべて基準を超えている。つまり、一枚一枚は、しっかり正確に測れているのです。
一枚ごとは正確。なのに、写真と写真のあいだで揺れる。これは、機械のブレではありません。機械のブレなら、同じ一枚を測り直すたびに揺れるはずです。そうではなく、立ち直すたびに――つまり、いったん足を崩してまた立つたびに――数字が変わる。何かが、立ち直すたびに変わっている。おそらく、立ち方そのものが、毎回わずかに違うのです。
念のため、もう一歩確かめました。じつは、はじめは三枚だけ撮っていました。そこで揺れが見えたので、「たまたま一枚が外れただけかもしれない」と考え、確認のために五枚へ増やしたのです。もし一枚の偶然なら、枚数を増やせば揺れは薄まり、ばらつきは小さくなるはずでした。けれど――ばらつきは、縮みませんでした。むしろ、わずかに広がった。揺れは、偶然の事故ではなく、撮り直しても残る、実態だったのです。
同じ人を、同じ日に、こんどは横から五枚ずつ――左右それぞれ五枚――撮りました。前後の傾きです。すると、後ろ姿とはまったく違うことが起きました。
同じ人を、同じ場所で、同じ日に、同じように立ち直しながら撮ったのです。撮り方の丁寧さは、後ろも横も変わりません。それなのに、後ろ姿は揺れ、横顔は落ち着いている。これは、撮影の良し悪しでは説明できません。
後ろから見た、左右方向は、揺れる。
横から見た、前後方向は、揺れない。
同じ身体の、方向による、はっきりした非対称。
ここで、思い出してください。前の回「二枚の窓」で、私たちは「後ろ姿は左右が得意、横顔は前後が得意」と書きました。二枚の窓は、それぞれ別の方向を映す、と。今回の実データは、それとは別の、もう一つのことを見せてくれました。この被験者は、前後方向には安定して立てるが、左右方向には立ち直すたびに乗り方が変わる――そういう揺れ方の癖を、持っているらしい、ということです。
ふつう、測定の道具は、揺れを嫌います。同じものを測って数字が動くのは、精度が低い証拠だと見なされ、できるだけ隠したくなる。平均してならし、きれいな一つの数字だけを見せたくなる。
AGGTは、逆のことをします。五枚の生の数字を、揺れの幅を、ばらつきの大きさを、全部、表に出します。平均だけでなく、「これだけ揺れました」を、いちばん大きく見せる。なぜか。
揺れは、隠すべき欠陥ではなく、その人を映した情報だからです。後ろ姿が3.6度の幅で揺れて、横顔は0.7度ほどしか揺れない――この差そのものが、その人の立ち方について、何かを語っています。それを平均でならして消してしまえば、いちばん大事な情報を、自分の手で捨てることになる。だから、ならさない。隠さない。揺れたら、揺れたと出す。
これは、強がりではありません。むしろ、弱さを認めることです。AGGTは、一枚で正確に測れる。けれど、人は立ち直すたびに少し違う。その「人の揺れ」を、機械の側で勝手に消さない。消さずに見せて、「この揺れは何だろう」と一緒に考える。それが、ふつうの測定器と、AGGTの違いです。
揺れを隠さない、と書きました。けれど「隠さない」は、「何でも言い切る」とは違います。むしろ逆で、一つひとつの数字について、どこまでなら言い切れて、どこからは言い切れないのかを、はっきり分けることです。私たちは、出てくる数字を、根拠の強さで四つの層に分けて考えています。
この四つを混ぜないこと。言い切れることは誇張なく言い切り、参考値は「ものさしが違う参考です」と添え、分からないことは「まだ分かりません」と正直に告げる。それが、私たちが数字を扱うときの、たった一つの作法です。
「では、ふつうの人と比べてどうなのか」と知りたくなるのは、自然なことです。世の中の研究が、どのくらいの値を報告しているか――参考として、いくつか挙げます。ただし、最初に強く申し上げます。「ふつうの一つの値」は、存在しません。健常な人でも、年齢や体格によって、驚くほど幅広くばらつきます。
たとえば、背中の丸み(胸椎後弯)。日本人の健常者六百二十六名を立位のレントゲンで測った研究では、平均およそ三十六度、ただし前後に十度ほどのばらつきがありました。腰の反り(腰椎前弯)は平均およそ五十度、こちらも十一度ほどの幅。そして、どちらも年齢とともに変わっていきます。「正常な一点」ではなく、「幅広い、動く分布」なのです。
ここで、正直に言わなければならないことがあります。世の中には「踵が四度を超えたら全身に影響する」「骨盤の傾きが五・六度を超えたら異常」といった、もっともらしい数字が出回っています。けれど、文献を当たると、後足部の四度はむしろ正常のど真ん中ですし、五・六度という値は「健常者の九十五パーセントが収まる上限」であって、「これを超えたら異常」という意味ではありません。健常な人の五パーセントは、ふつうにそれを超えます。もっともらしい閾値ほど、根拠を確かめると、足元が崩れます。
だから、AGGTは、これらの参考値を「判定の線」には使いません。使えない理由は、はっきりしています。スマホ写真から関節を推定する仕組みには、数度ぶんの誤差があります。判定したい閾値が数度なのに、誤差も数度。誤差が閾値と同じ大きさでは、「正常な人を異常と呼んでしまう」ことが避けられない。この仕組みで合否を判定することは、原理的にできないのです。だからこそ、私たちは判定をせず、揺れを見せることに徹します。
ここまで読んでくださった方は、お気づきかもしれません。この記事には、立派な結論がありません。「だからAGGTは正しい」とも、「この人はこういう身体だ」とも、書いていません。書けることだけを書き、書けないことは空白のままにしました。
それでも、この一人ぶんの五枚は、私たちにとって大きな一歩でした。これまでの三篇で「まだ一つもない」と書き続けてきた、AGGT自身の土俵の実データ。その最初の一滴が、ようやく落ちたからです。後ろは揺れ、横は揺れない。撮り直しても縮まない。一枚ごとは正確。これらは、文献から借りた数字ではなく、AGGTのものさしが、実際に人を測って出した、最初の事実です。
そして、いちばん大切なことを、最後に。AGGTが本当に確かに言えるのは、「正常か異常か」ではありません。同じ人を、同じ条件で、施術の前と後に測って、どれだけ変わったか――その変化です。前後を同じ条件で比べれば、ものさしのクセは打ち消し合い、変化だけがくっきり残る。揺れを隠さず見せながら、その揺れの中から、確かな変化をすくい取っていく。それが、AGGTがこれから歩いていく道です。
確かめたことは、確かめたと書く。
借りているものは、借りていると書く。
まだ分からないものは、分からないと書く。
そして、揺れたものは――揺れたと、隠さずに見せる。
一人を五枚ずつ測ったら、後ろ姿が揺れて、横顔が揺れなかった。たったそれだけのことを、飾らずに、隠さずに、お見せしました。重力は、誰にとっても同じです。その重力に対して、身体がどう立ち、どう揺れるか。一台のありふれたカメラと、揺れを隠さない覚悟があれば、そこへ近づいていける。これを、これから皆さまと一緒に、一滴ずつ確かめていきたい――それが、この一篇でお伝えしたかったことの、すべてです。